光の観つけ方

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心を平穏にたもつ お言葉

色々な人の言葉を載せます。随時更新。最新のものが上にきます。

 

心はシーソーのようなもので、嬉しかったり、悲しかったり、痛かったり、痛くなかったり、絶えずシーソーの両端が落ちたり上がったりしてその動きに意識や感覚がとらわれがちだ。そのシーソーの動きを支えている一つの動かない支点の存在を理解し、そこに集中しなさい。

嬉しくなったり、悲しくなったりする動き回る感情に自分の意識と感覚をゆだねる事は簡単だが、その変化する感情を支える全く静止している支点を明確に認識することは難しい。しかし、それを認識する行為が自分の心の本質と向き合う事なのでしょう。

 

「もろもろの悪を作すこと莫く もろもろの善を奉行し、

 自ら其の意を浄くす 是れ諸仏の教えなり」

という七仏通戒の偈を、松居桃楼先生が、『天台小止観』を講義された『微笑む禅』という書物の中で、

「一粒でも播くまい、ほほえめなくなる種は

どんなに小さくても、大事に育てよう、ほほえみの芽は

この二つさえ、絶え間なく実行してゆくならば、

人間が生まれながらに持っている、いつでも、どこでも、なにものにも、ほほえむ心が輝きだす

人生で、一ばん大切なことのすべてが、この言葉の中に含まれている」

と意訳されました。

とりわけ「仏の心」を「いつでも、どこでも、なにものにも、ほほえむことができる心」であると説かれました。

お釈迦様と迦葉尊者の拈華微笑の話にも通じるところがあります。『天台小止観』で天台大師は、「この世の中で、かしこい人には二種類ある。一つは、生まれながらにして、自分に対しても、他人に対しても、ほほめなくなるような種を絶対に播かない人、二つには、間違って播いてしまったとしても、すぐいけないと反省する人」であるというのです。こういう人ばかりだと、世の中には問題は起きなくなるでしょう。そうはいかないのがお互いであります。

私たちは、天台大師が説かれるような賢い人ばかりではありません。ついつい、イライラしたり差別をしたり、ほほえめなくなる種を播いてしまいがちです。そんな時には、まずその状態になっていることを自分で気がつくことです。それには、やはり、「感情を波だたせないこと」と、「思考力を正しく働かせること」という「止と観」の訓練が必要です。

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思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか人格になるから。
人格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

―― マザー・テレサ(悪い噂もありますが言葉自体はよいので掲載)

 

「侮辱や迫害を耐えるのが、一番の修行」 

( Bear insult, bear injury, this is highest sadhana)

「その時、その人は霊的な行いをしている」(when he is able to bear insult and injury, he becomes one with the Divine)